極真黒帯の思い出。田中康弘参段。 2021/07/01

極真空手の思い出

岡山西支部・相談役 参段 田中康弘(59歳)

押忍。早いもので私が極真会館に入門してから今年の1月でちょうど30年になりました。思い起こせば、30年前の年明けすぐに、岡山市の行きつけの居酒屋「竜馬」で岩田師範(当時笠岡分支部長)にお会いし、その場ですぐに入門を決意したのがきっかけでした。その間、思い出を手繰れば山ほど思い出されますが、今回は入門からの出来事を思いつくまま綴らせていただければと思います。

入門当初は、笠岡市民体育センターの武道場(現在でも審査会をしている場所)で週三回の稽古があり毎回参加し、稽古に行くのがとても待ち遠しかったのを覚えています。頭の中はすべて極真空手のことで一杯で、会社勤めをしながらも仕事のことはそっちのけで稽古第一に考えて日々生活していました。岩田師範は当時、初段で選手としても現役バリバリの時でしたが、とても親切丁寧にご指導いただきました。茶帯に警察官の田中昇さんがいらっしゃいました。また小学・中学の同級生でその昔暴走族のリーダーをしていたY君も青帯で頑張っていたのには驚きました。毎回の稽古が新鮮で、技の一つ一つをがむしゃらに覚えていった時期だったと思います。ちょうど1年ちょっとが過ぎたころ私は黄帯になっていました。また、会社の都合で1年間ほど東京に行くことになり、岩田師範に相談したところ、城西支部の田口師範(現在世田谷東支部長)にご連絡いただき、私は晴れて城西支部に短期間ではありますが稽古に励むことになりました。

1992年当時の城西支部は“チャンピオン製造工場”と異名をとり全日本の上位を何人も占めるほど活躍していた支部でした。私も最初とても緊張していたのですが、日々の稽古は当時の笠岡道場の稽古と余り変わらなかったと記憶しています。主に私は小田急線の祖師谷大蔵駅のすぐ横にあった祖師谷道場に通っていました。指導は田口師範で、稽古が終わると必ず近くの居酒屋で終電まで飲むのが楽しみでした。中でも茶帯のM先輩、緑帯のT先輩、青帯のA君とは毎回空手談義に花を咲かせていました。青帯のA君は同学年でもあり馬が合いました。

城西支部の夏合宿にも参加しました。2泊3日で確か山梨県だったと思いますが、当時のスター選手だった、増田章さん、黒沢浩樹さんとも一緒に参加し、写真も撮っていただきました。稽古の中で黒帯の先輩が前に並ぶ元立ちの組手稽古では、黒沢浩樹さんの前には怖くて前に行く勇気がありませんでした。しかし大勢前に並んで黒沢さんとの組手稽古を希望する人は多く、やはり人気の選手でした。そういった有名選手と一緒に合宿に行けたのは黄帯だった私にとってとても貴重な経験でした。

東京での生活がそろそろ終わるころ城西支部の昇級審査があり、私も受審を許されました。審査会場に行くと城西支部の錚々たる黒帯の先生方が前に勢ぞろいしている中で審査中無我夢中で技を繰り出しました。その審査の号令は田村悦宏師範がされていました。(現湘南支部長)。そしてなんとか昇級でき緑帯を締めて、その数か月後には笠岡道場に帰って来るのでした。

私が東京にいた平成4年から5年は他にも印象に残ることがあります。まず一つ目は、入門当初から一緒に稽古していた同級生のY君(元暴走族のリーダー)が心臓発作のため急逝されたのでした。葬儀には参列できませんでしたが、岩田師範はじめ道場生、同級生は多数参列したとのことで彼の交友関係の広さを物語るものだったようです。

また、現在の美の浜道場の道場開きもありました。忘れもしません、平成4年10月10日で、私はいてもたってもおられず東京から新幹線に飛び乗りお祝いに駆け付けさせていただきました。年が明け平成5年の2月に東京から岡山に戻り、新しく完成した美の浜道場にて緑帯を締めて稽古に邁進してゆくのでした。

この緑帯から黒帯までの時期がこれまでの楽しいだけの稽古とは違った極真の重みを感じながら過ごすことになりますが、これ以降はまた別の機会にでもお伝えできればと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。押忍。