下総ファミリー121号 2022/07/16

< 行事予定 >

*7月23日(日)  千葉県中高生合同稽古(おおたかの森道場)

*8月  7日(日)  支部合同稽古(清水公園体育館)

*8月27日(土)  セミコン全国交流大会・2022全日本型競技選手権大会(京都府立体育館)

*8月28日(日)  2022西日本空手道選手権大会(京都府立体育館)

*9月  4日(日)  昇級審査(清水公園体育館)

*9月10日(土)  2022東日本空手道選手権大会(墨田区総合体育館)

*9月17日(土)  千葉県空手道選手権大会(船橋アリーナ メインアリーナ)

※ ↑ 上記行事中は各道場休館になります

< 夏季休館のお知らせ >

*せんげん台道場     8月11日(木)~16日(火)まで

*愛宕道場        8月12日(金)~16日(火)まで

*流山道場        8月15日(月)~17日(水)まで

*我孫子道場       8月  8日(月)~14日(日)まで

*おおたかの森道場    8月11日(木)~14日(日)まで

*松伏道場        8月13日(土)~17日(水)まで

< KARATE ここに源流 >

これは 2022年(令和4年)6月10日(金)の朝日新聞に掲載されていたものです。

私もこの内容は知っていましたが、船越義珍先生が東京で開かれた『運動体育展覧会』で『唐手』

を披露してから今年で 100年の節目に当たるそうです。沖縄から本土への本格的な普及はこれが

契機になった。琉球の『手』が世界の『KARATE』となって行く。

船越先生は県立師範学校武道教師などを歴任し、1922年県学務課の要請を受け文部省主催の

『第一回運動体育展覧会』で沖縄代表としての唐手を演武する事になったと言う。

本土の武術家らにとっては未知の体技であり理解させるのは難しい。色々考えた結果空手の手、

そして足の使い方、また型や組手などの写真を撮ってこれを整理し掛け軸にしてもらったと書いて

ある。(好評だったそうです)

柔道の嘉納治五郎先生の招聘に応じ講道館でも演武を公開。滞在中、新聞報道の反響も大きく

多方面からの演武や指導の依頼が届いたと言う。54歳の船越先生は本土への空手の普及を決定し

東京に留まった。

1922年(大正11年)4月30日から東京で開かれた運動体育展覧会の後、同年空手史上における

最初の活字本『琉球拳法唐手』が世に送り出された。沖縄県人の学生寮『明正塾』を拠点に

東奔西走し慶応、早稲田、拓殖などの大学の他、陸軍や警視庁でも指導に当たったと言う。

1939年に豊島区に道場『松濤館』を構える。船越先生が 88歳で亡くなるまでに故郷に帰ったのは

一族の墓参りに訪れた一度だけとも書いてあった(空手に全てを捧げた人生)。空手は裸で稽古を

していたが柔道着を参考に道着を纏う様になり、段位制度も採用した。

当初嘉納先生は空手を柔道の一部門として取り入れる考えがあったそうで、しかし船越先生は

それを断ったと言われる。(柔道や剣道に匹敵する武道として完成させる夢を抱いたと言う)

空手は大学を中心に普及して行った事で当時エリートだった大学生が技を科学的に分析し、

運動理論などを取り入れつつ稽古法などを考え、体系化したという。

東京の大学で指導された船越先生は『近代空手の父』と呼ばれている。

最後に運動体育展覧会から100年.。

『沖縄船越義珍顕彰会』の立津明長会長は『あの展覧会から空手が日本本土に伝わり世界に広ま

ってオリンピック種目にまでなった。船越先生の偉業を思うと感慨深いものがある』と新聞には

締め括ってあった。

『空手に先手なし』この言葉は船越先生が『松濤二十訓』の中に残された格言。

意味は深いですので是非調べて頂きたい。大山倍達総裁は『空手に先手あり、されど私闘なし』と

仰っています。

下総ファミリー102号(2018年11月号)にも似た様な記事を載せていますのでこちらも宜しければ

ご覧下さい。

< 感 謝 >

先日、立ち技格闘技の “ the Match ” が行われ話題を攫っていた。

オープニングマッチを含む16試合32人の選手が戦ったのだが空手経験者も多くその中でも

極真出身者が多くいました。特にメインの天心選手と武尊選手の一戦は皆さんが知っての通り

大注目を浴びていた。私は天心選手との関りがあるため応援をしていたが、試合が終わった後、

携帯のニュースを眺めていると敗者の武尊選手のコメントをクローズアップした文面を見つけ

読んで見た。そこには『この10年間、勝ち続ける事で自分の存在価値があって負けたら全てを

失うと思ってた。負けた後の想像をするだけで毎日怖くて寝れなくて今、周りにいる人達や

ファンも負けたらたくさん離れて行くのを覚悟していた。でもリングを降りて花道を退場しよう

としたら敗者の僕に対してたくさんの人が集まって来てくれてみんなが「ありがとう」と言って

くれた。そんな言葉を貰えると思ってなくて涙が止まらなかった。その時の声や景色は一生

忘れない。勝って報われる事は出来なかったけどこんなにたくさんの人に試合を見てもらえて

たくさんの人が一緒に泣いてくれて生きる希望を貰いましたと言ってくれる人がいて心と身体が

ボロボロになっても命を削って戦ったこの10年が報われた気持ちになりました。満席の東京ドー

ムでこんな景色をみせてくれて僕に関わる全ての人達に心から感謝しています』と綴られて

いました。

この文面とともに写真が掲載されていましたが、この文面の事が伝わる素晴らしい写真でした。

実際私の師はどちら側にも関係する選手や関係者の方がいて中立の立場ですが最前列で観戦し、

武尊選手は青白く、全てを背負って入場して来た感があり、対照的に天心選手はリラックスして

いつもの様に入場し時折ニコニコとしていたと仰っていました。

私はこの緊張感と雰囲気を第4回世界大会で感じた事を思い出しました。試合が進むにつれ当たり前

ですが選手が減り遂に日本代表の選手が準決勝の第一試合が終わった時点で松井館長のみとなりま

した。

当時は本当に日本代表選手が優勝しなければならないという緊張感があり、私はこれ程までに試合

を観て緊張した事がありませんでした。

試合は必ず勝者と敗者が生まれます。真剣に練習(稽古)をした結果として生まれる感情だと思いま

す。そして今回の敗者側のこの文を見た時今までの思いと背負ったものや、やって来た事などを

感じとれました。勿論細かい過程の事は本人しか分からないと思います。

勝者の天心選手は少年の頃から知っていますが、周りを引き付ける何かがある子でした。

ボクシングに転向しても何かを見せてくれる事でしょう。