下総ファミリー127号 2023/07/31

< 行事予定 >

*8.月 6日(日)  千葉下総支部昇級審査(野田市総合公園体育館)

*8月26日(土)・27日(日)     極真祭(京都府立体育館)

※ ↑ 上記行事は予定変更・中止になる場合もあります。

※ ↑ 上記行事中は各道場各道場休館になります。

< 夏季休館のお知らせ >

*せんげん台道場    8月12日(土)~17日(木)まで

*愛宕道場       8月11日(金)~15日(火)まで

*流山道場       8月14日(月)~16日(水)まで

*我孫子道場      8月14日(月)~17日(木)まで

*おおたかの森道場   8月15日(火)~23日(水)まで

*松伏道場       8月23日(水)~29日(火)まで

< 挨拶 >

挨拶について前にも少し触れたことがありますが、挨拶を辞書(ググる)で調べると人と会った時

取り交わす儀礼な動作や言葉。或いは儀式、就任、離任などの時、祝意、謝意、親愛の意などを

述べる言葉と書いてある。その他に日常の人間関係を円滑に取り運ぶための一定の形式をもった

半ば儀礼的な相互行為。

一方、人間関係を疎遠にする為に交わす事もあると書いてあった。この辺が曖昧な日本語って言わ

れる所以か(笑)諺にも逆も然り。

例えば『急がば回れ』これは武士が京(京都)に向かう際の交通手段を詠ったもので矢橋の船は

速いが急いでいるのであれば瀬田に架かっている長橋を渡りなさいと言う室町時代に活躍した

宗長と言う歌人による短歌だそうです。

つまり琵琶湖を渡って京に上るには、矢橋(やばせの港)から大津への航路が近道に見えるが風の

影響などを受けて、しばしば遅れたり危険を伴ったりする。確実に行こうと思うなら瀬田の唐橋

まで南下して行くべきであると言う事。

この急がば回れの対義語として言えるのは鉄は熱いうちに打てや、先んずれば人を制す、好機逸す

べからずなどがあります。

勿論、意味合いは少し違いますが私的には日本ぽくてと思いました。

話はそれましたが戻します。

挨拶の『挨』とは「推しはかる、近づく、触れる」で『拶』は「せまる・切り込む」だそうです。

仏教用語で元々は今の中国で『押し合いながら前に進む』と言う意味で使われていたそうです。

どんな状況だったんですかね。(笑)その後、日本に入ってからは意味として『お互い研鑽して

自分を磨いていこう』と言う意味で使われていたそうです。その後『言葉を取り交わす』と言う

意味が含まれたとの事です。

今ではコミュニケーションの入り口と出口に使われる事が多いですね。

挨拶は仏教、儒教の影響を受けて武道にも浸透し今でも大切な一つとなっております。前にも書き

ましたが試合の中で相手に対してリスペクトし、始めと終わりに頭を下げて挨拶をする、反則すれ

ば頭を下げて謝る。これが抜けると注意が与えられる。

試合なのにって言ってくる人がいましたが強さも大事ですが、社会人、或いは社会の中で生きて行

く為にはルールやマナーが大事である事を伝える事も大事な場となっています。

柔道の少年全国大会も勝利至上主義の観点から取りやめる事になったと新聞で読みました。その他

にも色んな障害があったと思います。道場に入る時も我々は “押忍” と言って入ります。何でだろう

と思う人もいるかもしれませんが道場で稽古して強くなったり学んだりするのである意味、道場に

対してのリスペクトの精神があるのではないでしょうか。

少なくなったとはいえ、コロナもまだまだ続いておりますが共存しなければならないのですがしっ

かり挨拶をして声を出して稽古に励まなければなりません。

挨拶しない人の中には過去に嫌な思いをした、例えば挨拶したのに無視された(無視されるのが

怖い、或いは頭にくる)言葉にするのが恥ずかしい。照れくさい。挨拶の習慣がない。

或いは親などに特に教えられていない。その他にも嫌いな人だからとかコミュニケーションを

取りたくない。面倒くさい。聞こえていない。などがあります。

私は指導している立場の人間として、なるべく挨拶をするのですが、昔、犬の散歩をしている時に

誰にでも挨拶するので、知らない人にお店などで声をかけられたりします。

女子学生などにも挨拶していましたが、流石に変な人と思われそうなので今は声を掛けない様に

しています。(笑)

他には勿論無視する人も結構いましたが何人かはそのうち話し掛けてくれる様になりました。

社会では生きて行くためにはある意味必要なツールとも言えるでしょう。

人によっては煩いって思う人もいるので見極めも必要かもしれませんね。(笑)

< 型は何の為にあるのか >

ある稽古の時、少年部の生徒が『先生、型って何でやるんですか?』って聞いてきた。

『何でだと思う?』と聞き返すと首を横に振った。そりゃそうだろう分からないから質問したんだ

から(笑)私も型を良くやっていた時、ここに何があるのか考え私なりに調べたことがある。

私達の頃は何故か先生に質問してはいけない(生意気)と言う事が自然と身に付いていた為、聞く

事は出来なかった。お酒を酌み交わす席ではここぞとばかりに聞いたりもした。

その時の先生は『ダンスと同じじゃないか?』と私に言った。(笑)

我々の時は型は審査の時に覚えるものとの認識でいたので普段の稽古ではあまり熱心に型をやった

記憶がないが審査の前は頑張って型を覚えた。

私は当時型が正確に出来る先輩とかはいなかったので支部で貸してもらえるホームビデオの

VHSテープを順番に借りました。そのビデオテープの中で型をしている方は当時、城西支部に

出稽古に来られていた松井館長で本当に綺麗な型を打っていました。

型ってこんなに格好いいんだと初めて思った瞬間でした。その頃の人達は型をやったら強くなると

は思っていなくて、先程も言った様に審査の為に行っていたと思う。

極真に型試合も無かったし当時は型の意味も分からなかった。

話を戻して少年部の生徒は分からないと答えた。

私は『先生が思うには昔は今みたいに携帯で動画を撮ったりビデオで撮影したり出来なかった。

出来なかったと言うよりはまだ発明されていなかった』と話しただけで携帯なかったんですか?

って言われた(笑)

『だから大事な所は動きを分解して、それを繋げて作ったのではないかと思う。短いのは長いと覚

えるのが大変なので幾つか(沢山の)型が出来たのではないか。その動きには敢て鍛錬を加えてい

ると思う。』と話した。

一説には本土に伝わる時に嘘の動きを入れたものもあるのではないかと何かの本に書いてあった。

後日、私の知っている型の名手2人(先生)にその話をして、『先生は型は何だと思いますか?

或いは型は何の為にあるのでしょうか?』と唐突に質問してみた。

1人の先生は『私は鍛錬の為だと思います。隠し手はあります。本当に信頼している弟子にしか

全てを教えず、他の人には一手少なく教えていると聞いた事があります。』と答えて頂いた。

もう1人の先生は『そのまま戦いに使えると言うわけではなく、鍛錬系や身体操作系や本来武器

を使っているものを徒手に置き換えた形や流儀の保存振興の為に作ったものなど、その目的がある

様に思っております。弟子に伝える事もあると思います。』とお話し頂きました。

今は私的には文化として捉えられている部分に成って来ている所もあるのではないかと思います。

何方にしろ私も含めた3人の先生の見解として、やはり鍛錬が入っていると伝えると言う事が含ま

れていると思います。

秋の支部型試合に向けて頑張ってみては如何でしょうか。