香川・岡山西支部 相談役 尾原章正参段の空手随筆 2021/11/20

極真空手との出会い

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1951年生まれの私にとって高度成長著しい昭和30年代の娯楽は何といっても映画でした。当時のヒーローは月光仮面、七色仮面、怪傑ハリマオ、赤胴鈴之助、姿三四郎等がそうです。

少し変わり者の尾原少年は東映映画の姿三四郎というのが大好きでした。主役の柔道家の姿三四郎ではなく敵役の総髪の空手家桧垣源之助に憧れていました。

親戚の叔父が岡山市内で谷派糸東流の空手家だったことも少しは影響していたかもしれません。ある時、叔父は町内のバス旅行で県南の海水浴場に行った先で手刀でスイカ割り

を披露したりしていました。

尾原少年はやがて成長し中学3年生になり東京オリンピックも終わった次の年の昭和40年の秋、岡山市内の中心部の深柢小学校付近徘徊中、突然体育館の中から「キエーッ」という奇声が聞こえてきたので興味津々体育館の中を覗き込んだのです。

何と空手の組手団体試合の真っ最中だったのです。試合を見るのは初めてのことです。当時も上下白の道着の選手が一般的ですが中には上が黒、下が白またその反対で上が白下が黒の選手もいました。

今では考えられないことですが白い袴下に大きく墨で馬鹿とかいろいろ書いた者もおりました。

当時は極端な寸止めですが黒帯が弱そうな白帯に容赦なく前蹴りを1発決めてKOしてしまいましたが即1本負けとなりました。

ボクシングとは違う動きにすっかり魅せられてしまいました。

翌年高校に入学すると叔父の勧めもあり空手同好会に即入部しました。2年生になると

同好会ではもの足らずもっと強くなりたいと叔父の弟弟子K三段の岡山駅前の道場に通うようになりました。(4級まで昇級)

高校3年生の時、大山館長の世界空手ケンカ旅行という本に出会い極真空手に憧れるようになる。

昭和44年極真空手に憧れしかも青雲の志を抱いた尾原少年は東京方面の大学に入学しました。しかし新物食いの少年は当時岡山で流行っていた少林寺拳法部に入部する。

しかし3ヶ月で退部することになりました。

池袋の極真空手の本部道場に通う勇気もなかったのです。(実は兎年生まれの私はウサギの心臓を持っていたのです。)何故か強い者に憧れる尾原少年は極真空手の全日本大会だけは第3回第4回と東京体育館に足を運ぶ。ちなみに優勝者は第3回は今は亡き柔道出身の佐藤勝昭、第4回は三浦美幸でした。注目の無手勝流の長の富樫宜資はどう見てもド素人でした。それでいて勝ち上がるのですから八百長があったかもしれません。場内ブーイングの大嵐でした。(現在は無門会の会長で最近のユーチューブ動画を拝見するに流石にその動きは達人級で完成されていました。) 骨と骨がぶつかる音がとにかく凄かったです。

4年生になりどうしても空手を習いたい友人と道場見学に何ヶ所が行き最後に行った水道橋駅の日本空手協会本部道場に半年間在籍8級を取得する。(1時間のレッスンでチャイムが鳴ると終了10分後またチャイムが鳴ると次のレッスンが始まります。まるで学校の授業のようで指導員も全日本クラスの有名な先生ばかりです。1時間なら楽勝と甘い考えで始めたのが動機です。^^)

大学を卒業後、コチコチの硬派と自他ともに認める私は岡山県警察官を拝命しました。その後の空手歴は岡山市の日本空手協会西大寺支部、松濤館流秀修館道場1ヶ月と長続きしませんでした。

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何故なら車はアメ車を乗り継ぎハーレーのコピー車陸王等に乗り一般の人違う趣味を楽しむのに忙しかったのです。

玉野市に住んでいるとき28歳のころ体力不足を痛感し何か運動をしなければと思い当時流行っていたゴルフや野球ではなく空手を選び和道流玉野支部に入門し憧れの黒帯を目指しました。(和道流は松濤館流と違い腰の位置が高く足腰の弱い私には楽に見えたから)

真面目に13年間稽古し転勤になるまで頑張り3段になりました。 (昇段するたびに懇意にしていたT先生がこの人は警察官で真面目に稽古もしているので出来が悪くても手心を加えてくれと審査の度にお願いをしているのをロバの耳を持つ私は聞き逃しませんでした。^^;)

しかし私は110番でケンカの現場に臨場しても腕自慢やキチガイ相手では柔道、寸止め空手では役に立たないことを痛感しました。修羅場を経験しないといけないと本気で思うようになりました。

ワールド空手の全身パワー空手の愛読者でもあった私はついに岡山県にも極真空手の支部ができることを知ったのです。(以前からM先生の極真空手同好会が倉敷市にあるのは知っていた。)

全日本で2位になったことのあるM先生ですから倉敷市内でデモンストレーションを見た時も他の黒帯の弟子と違い本物でした。

40年近く前のことです。

そしてついに第1回岡山県大会が開かれ第5回大会まで続きました。入場料は1000円だったと思います。

ひと際目立っていたのは第1回大会から第3回大会まで出場した男前で端正な顔立ちの岩田師範です。当時珍しい華麗な上段回し蹴りと強烈な当たれば死ぬのではないかと思われるような電光石火の正拳突きを引っさげ縦横無尽にコート内を暴れまくっていました。

私はすっかり岩田師範に魅せられ一地方大会とはいえ学生時代に見た全日本大会にも劣らないレベルの高さに圧倒されたのです。

これぞ本物の空手だと痛感し子供が生まれたら絶対極真空手を習わすぞと心に誓いました。(私は兎の心臓を持つ男ですから習う勇気はなく道場の外から見学をと思っていたのです。)

第3回岡山県大会に無謀にも私の友人寸止め多流派のA君が出場しました。(実はA君から私にも出ないかと誘われましたが即答で断りました。)

1回戦で富山出身の受けの上手なN選手と当たりました。本戦は引き分け延長戦に入るとすぐに後屈立ちからの素早い前蹴りでKO負けとなり戸板に乗せられての退場となりました。(本戦はお互いお見合いになりブーイングの嵐でした。しかし目と目が火花を飛ばしておりそれはそれで見ごたえがありました。)その当時の岡山県大会は今と違い少林寺拳法や中国拳法や空手の多流派等も結構出ていて面白かったです。

そういう訳でだいぶ回り道をしましたが岩田師範が開設したばかりの倉敷玉島道場に娘と息子が入門しました。

私も師範の甘い誘いに乗り子供たちに遅れること1ヶ月して入門しました。平成7年の4月のことで私は44歳になっていました。白帯が多くて黄色帯がいちばん古かったです。今と違い子供はほとんどおらず血気盛んな20代の若い人ばかりでした。

現在 倉敷玉島道場の山本先生もまだ若く20代で当時最強の緑帯でした。

道場に入ると皆さん殺気立っており私も回れ右をして子供を置いて帰りそうに何度かなりました。組手になると皆さん、真面目な人でも恐怖のあまり狂ったような目をしていました。岡山のM先生の道場と違いまだ素手でド付き合いをしていました。

これこそ私が望んでいた喧嘩の間合いです。極真空手の魅力にはまりはや25年が過ぎました。光陰矢の如しとはよく言ったものです。

これからも1本足の鉄下駄と鉄製の竹馬ならぬ鉄馬で体幹を鍛え岩田師範、山本先生の足手まどいにならぬよう精進いたします。

押忍

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第2部

1995年の平成7年4月についに44歳の私はあこがれの極真空手を習うため子供たちに1ヶ月遅れて倉敷玉島道場に入門しました。

玉島道場はまだ出きて半年程でしたが30~40人の若い人で狭い道場は大変活気がありました。基本稽古が始まると手技は良いのですが足技になると周りの人に足が当たりそうになります。(そういう時は周りの人に当たらないように技を出すのも練習だと岩田師範の檄が飛びます。)

基本、移動、受け返し、ミット稽古が終わるといよいよ組手稽古です。

今でこそ拳サポーターを付けて安全に練習をしますが当時はまだ素手のど突き合いでした

から対戦相手の目が真剣そのものというか狂った様な異様な目をしており道場内の雰囲気が殺気立っていました。

家に帰り風呂場で鏡を見ると胸がもう真っ赤になっていました。足も下段のダメージで腫れ上がっていました。寸止め空手では考えられないことでこれぞまさに極真です。

本当の空手に巡り合えたと思いました。毎日が喧嘩の練習です。なぜか皆さん私と対戦するときは本気でぶつかって来ます。40歳を過ぎているとはいえ私はまだ現役の警察官ですから大変良い実戦の訓練になりました。仕事のストレスも解消され最高です。私は体が硬いせいか手の握りも甘くよく突き指等はしょっちゅうでした。肋骨も4回折れました。

(10年前のレントゲン検査で胸に4箇所白い点があり先生が不思議がっていました。)

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入門してから1か月後に昇級審査があり白帯から5級に昇級し黒帯には1年半で昇段しました。

試合のことですが入門してから1年後に壮年部にも待望の試合が組み込まれるようにな

りました。1996年12月に4人エントリーして出場したのは3人でした。私が茶帯で笠岡の黄色帯のTさん倉敷の青帯のKさんです。3人の総当たりで最年長者の私が優勝しました。緊張のあまり肩に力が入り過ぎ2回戦うと完全に息切れになりました。寸止めの試合では考えられない経験でした。

家に帰り嫁さんの取ったビデオを見て我が目を疑いました。まるでスローモーションの動画を見るような動きです。自分では高速の突きの連打を浴びせ下段蹴りで決めたと思っていたのですが無様な試合運びを見て穴があったら入りたいような心境になりました。

何年か立ってふとパンフレットを見ると欠場者はなんと広島の上段回し蹴りの得意な浜中先生でした。たしか会場には茶髪でヤンキーのような眼鏡をかけていた人が来ていたはずです。とにかく私は幸運でした。^^

その後も試合に出続けましたが10年間で優勝4回準優勝4回3位3回後は。。。。。。です。54歳の時、仕事中に交通事故で左足を骨折4年程ブランクがあります。

一番の思い出は1997年10月12日第1回全日本壮年・女子大会に岡山県代表として出場したことです。残念ながら1回戦で浅草道場の選手に判定負けでした。

2000年4月福山で広島県交流試合に出場し決勝でウエイト制に出場経験のあるY初段と対戦した時コートの周りは全員Y初段の大応援で盛り上がっていました。敵は前にいるだけではないので~す。

試合は延長で前蹴りの集中砲火を浴びた私がガス欠判定負けでした。反省点は前蹴りは必ずブロックすることです。ダメージが溜まります。

懲りない私は2年後の2002年6月第3回広島県大会に出場し決勝で広島のM2級

と対戦しました。この時も完全に私は悪役です。コートの周りの大観衆は全員敵です。突きと下段だけの私には珍しくミドルキックも出しグレート東郷のように相手選手に襲い掛かり本戦で圧勝しました。この時は最高に気分良かったです。

今でも交通事故の後遺症で左足が少し不自由ですが4年間のブランク後各種大会に出場しましたが突きと下段だけの私はなかなか勝つことが出来ませんでした。

最後の大会が10年前の平成21年12月第1回岡山県大会です。香川の川田師範代が出場していないので優勝するチャンスです。決勝の相手は私より一回り若い笠岡美の浜道場のO初段です。主審は岩田師範です。異常に会場が寒かったのを覚えています。延長戦に入りかっこ良く左上段回し蹴りを出したのですが背の高いO初段の右肩にしか届きませんでした。 その時「蹴りなんか出すな~、突きだけでええんじゃ~、突けえ~」と山本先生の怒鳴る声が聞こえてきました。本当に突きだけでええんかな~と思いながらも戦っていました。「尾原先生頑張って~」という大声援にも後ろから押されて蒸気機関車のごとく左右の突きだけで突進していきました。不思議と疲れは全くありませんでした。広島の試合とは全く違い気持ちよく戦えました。そして何とか優勝することが出来ました。大声援は勇気100倍の力が出るということを初めて体験しました。自分一人で戦っているのではないのです。

若い人は試合にでることです。絶対に何か得るものがあります。

今の私は転倒して寝たきりにならないように体幹を鍛えまた田中相談役のように180度開脚を目指しております。もちろん岩田師範のような華麗な回し蹴りを夢見て。。。

押忍

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第3部

あとがき

私は現在、若い時のようなお前も殴れ、わしも殴るというような力まかせの底辺レベルの空手ではなく華麗な組手をめざしております。玉島道場の山本先生も壮年部は若い時のように力に頼らない脱力した動きを身に付けなければいけないと力説しています。全くその通りだと思います。しかし無駄な力を抜いてスッと重心移動して相手に打撃を加えることは中々難しいとです。不器用な私は良く叱られております。

週1回の玉島道場出の稽古では物足らず2年ほど前から岩田師範が直々に指導する倉敷大内道場にもお邪魔しています。

ある時、岩田師範が前蹴りは槍で刺すように蹴るんだと私達弟子に見せた前蹴りは本当に槍で突き刺すようなまるでダイナミック空手(大山倍達著)に出てくるような前蹴りでした。そしてつい最近、ミット稽古中、普段滅多に見ることの出来ない岩田師範の上段回し蹴りを後方からまじかに見た時には驚かされました。まさに山本先生の言われる0からスタートして100の力でヒットする理想的な上段回し蹴りです。(YouTubeにも岩田師範の現役時代の映像があります。)一撃必殺とはこのことです。あの蹴りをまともに食らったら病院送り間違いなしです。

最近は普通に街を歩いていても刺されたり電車の中でいきなり襲われたりと物騒な世の中になったものです。

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鶴田浩二の歌ではないですが右を見ても左を見ても。。。。。。

フランキー堺の「私は貝になりたい」という映画のように兎年の私は家に引きこもりをしております。そして、いざというときには私のような爺でも冷静沈着に一瞬で暴漢の一人や2人を片づけるという妄想にふけっています。

周りが暗くなると急に元気が出て一撃必殺の技を身に付けるべく少年のように目を輝かせ道場に通っている今日このごろです。

押忍